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[ 116] イノベーションのジレンマに陥る優良企業たち:インタビュー - CNET Japan
[引用サイト]  http://japan.cnet.com/interview/story/0,2000055954,20060205,00.htm

ハーバードビジネススクール教授のChristensenは、優良企業がトップの座から落ちる理由について独自の理論を発表し、大きな話題となった。優良企業の悲劇は、重要顧客の声に耳を傾け、最も収益性の高い分野に投資するという健全な経営手段に端を発しているという。
「技術進歩のレベルが顧客の実際のニーズと活用能力をはるかに超えると、行き過ぎが裏目に出る。新興企業に、より安く単純で、高機能を必要としない顧客から見れば十分な性能を持つ商品を提供する機会を与えてしまうのだ」と、Christensenは言う。そして、これを「破壊的イノベーション」と名づける。
Christensenの考えによると、新規参入企業は低価格帯の市場に一度根をおろせば、その製品を改善してシェアを拡大することができる。場合によっては、市場トップの企業を追い落とすこともあり得るというのだ。
破壊的イノベーターを相手に巻き返しを図るためには、大企業は子会社を設立し、しかもその子会社に親会社を脅かすほどの自主性を与える覚悟が必要です。最近、いくつかこのような例が現れています。HPはレーザープリンタ事業の一環としてインクジェットプリンタの販売を行っていましたが、あまりうまくいきませんでした。そこでHPは、レーザープリンタ事業に影響が出るのを覚悟で、バンクーバに独立組織を設立しました。
ところが驚いたことに、HPのインクジェットプリンタ事業は、レーザープリンタ事業と顧客を奪い合うことなく成功し、プリンタ市場におけるHPの独占的地位は変わらなかったのです。もっとも現在のHP経営陣は当時の考え方を捨て、事業統合を進めてHPを画一的な組織にしたがっているようですが。
ここで言う「破壊」は企業のビジネスモデルに関してのみ使える言葉です。例えば、インターネット販売は店舗販売に対する破壊的モデルです。
PtoPファイル交換もそうです。破壊的イノベーションが発生し、市場により利便性の高いものが登場すると、必ず全く新しい消費パターンが生まれます。音楽を簡単に入手できるようになればユーザーの消費量は増え、ますます業界全体の変化が進んでいきます。
そうですね、私が今シンガポールにいる理由もそこにあります。シンガポールは日本の経済停滞に対し、破壊的イノベーターと似た立場にあると思われます。
日本が経済大国となった背景には、日本企業が破壊的イノベーターとして貢献したことが挙げられます。例えば、ソニーは安い小型ラジオを、キヤノンは卓上コピー機を作りました。ローエンドから始まったこれらの企業が今ではハイエンドへと移行し、そして行き詰まりを迎えています。
シンガポールは、過去の日本と同じ境遇にいます。つまり、ローエンドから始まり、単純な製品の生産拠点として、また安い労動力を武器に海外投資の誘引に成功しました。しかし今は、ハイエンド側へと移行しすぎています。シンガポールは、新しい破壊の波をデザインし、生み出さなければなりません。
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[ 117] 大規模サービスを展開する企業が陥るジレンマ - naoyaのはてなダイアリー
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/naoya/20051119/1132378872

このところ大きなサービスを持ってる大きな企業が運用するウェブサイトについて考えることが多かったので、ちょっと書き殴ってみるとします。
一見すると大企業ってのは人もたくさんいるし資金もたくさんあるし、小さな企業と競争になっても、簡単にそれを踏みつぶしてしまえるような印象を受けます。いやいや、そんなに簡単じゃないんだよっていうのがイノベーションのジレンマであり、大企業病のジレンマであり。で、ウェブの企業にもう一つ当てはまるジレンマがあるなあと最近思います。
はてなダイアリーのキーワードページに、Yahoo! ニュースのトピックページからリンクされることがあります。そのニュースが Yahoo! Japan のトップページに載ってたりするものだと、キーワードページへの瞬間最大トラフィックが恐ろしいことになります。最近は対策を練ったので問題ないのですが、一時期は Yahoo! トップに載ってるニュースからリンクされるとキーワードページがダウンしたりしてました。(ニュースからリンクされてる記事を見ると、ときおり「現在閲覧しづらい状況が....」と出たりしますが、それはトラフィックに耐えきれずに相手方が落ちているという。) 名付けて Yahoo! アタック。
その一方で、個人でウェブのサービスをリリースするなんてのは、気楽なもんです。せいぜい来ても 100 〜 1,000アクセスかそこらだし、アクセスが増えてきてもサーバーをもう一台追加するとかすれば当分はしのげます。その間に、現在のトラフィック/ユーザー数の背丈に見合った品質確保のためのノウハウを身につけるなり投入するなりすれば良く、それは小さければ小さいほど容易い。
ここにジレンマがあるんですよね。大きな企業で、大きなサービス、強力な導線を持ってる企業ってのは、そのサービスの初期段階からきちっとした設備投資、品質確保を行わないといけない。サービスを少しずつ育てていくということが難しく、リリースした次の日からいきなり運用保守モードになってしまう。
What Is Web 2.0 のなかでオライリーは、早期に且つ頻繁に機能を改善、リリースしていくことが重要だと述べていますが、トラフィックが大量に集まるサービスではその変更がどうしても難しくなってきます。ユーザー数が多いために、新しい機能を追加したり既存の機能を変更したりする場合の影響が大きかったり、あらかじめ十分な負荷分散を見積もらないと変更できなかったり。それから、企業として、求められる責任の度合いがどうしても大きくなる。そういう状況では、どうしても変化に対して鈍くなり、遅くなってしまいます。
たとえばはてなダイアリーは、現在 100 台以上のサーバーで運用されていて、データベースのパーティショニングや、コンテンツキャッシュの仕組みなんかはいたるところにあって、その運用と開発に結構な工数がかかっています。これはサーバーが1台のときから継続的に運用開発をしてきたからできた芸当で、初日から 100 台サーバー用意して、なんて言われてもたまったもんじゃありません。
いきなり100台はオーバーにしろ、大きな企業ではそういうことが常なんだろうなあと。ニフティにいたときも、ココログをオープンするときにはその辺にすごく神経使いましたし。それでも開始早々障害が起こって、何日も会社に泊まったりしました。そういう状況で、早期に且つ頻繁にリリースしる! それが Web 2.0 だ! なんて言われても「オイオイ」って話になるなあと。
愚痴ばっかり言っててもしょうがないので、将来のために対策などを考えてもいます。このジレンマに対応するメソッドというのはおそらく過去の事例の中にいくつかあるかなと。そのパターンを洗い出してみたい。
ふたつめ。Google には低レベルレイヤのコア技術がいくつかあるそうですが、そういうものを早期に確立して、技術面での変化に対するリスクを下げるという方法。Yahoo! にも、大量のトラフィックをさばくための独自の技術があると聞いてます。
これからは Binary 2.0 だ! なんてちょっと笑い話っぽいですが、あんがい笑ってる場合じゃないかもしれない。間違いなく、はてなに足りないテクノロジーはこのレイヤにあるし、そこで成果を出すことができればもっと飛躍できるのではないかと思っています。
ただ、全部 C や C++ で作るとかそういうのはアレなので、やはり Lightweight な言語とフレームワークで開発自体はラピッドに、開発者の技術レベルがある程度ばらついてても対応できるような開発体制でいつつ、彼らがそれを意識しなくても良い、低レベルレイヤでそれらアプリケーションを支える特化型の技術を持っているという、そういうのが理想かなと思います。
みっつめ。Google やサイボウズのように、新規プロジェクトや新しいサービスをラボとして、本ちゃんのものから隔離する方法。あまり本サービスからトラフィックを流したりとか、そういうことをせずに小さなところからスタートさせて、少しずつ育てていくと。あんまり本体から隔離させすぎると、ただの研究で終わってしまいかねないので、その辺のバランスの取り方とかやり方が重要になりそうです。
よっつめ。クローズドな環境で育てていく方法。ベータ希望ユーザーにのみ新プロダクトを解放したりとか。GMail が招待制だったりするのもその一例かな。はてなでは以前にダイアリーの管理画面をリニューアルするときに、この方法を取りました。
他にも色々あると思うけど(なんかいいのあったらぜひコメントなりトラックバックで教えてください)、これもやっぱり銀の弾丸は存在せず、Try and Error と組み合わせが重要なのかなと思います。あと、大前提として、そういう類のことを実現できる企業文化を小さなころから大切にすること。
はてなもユーザーさんもトラフィックも増えてきたし、こういうことを真剣に考えていかないと、いずれイノベーションが止まってしまいかねないなと、最近思うのでした。
研究所の話に似ているのですが、化粧品や服のようにブランドを分けるのはどうでしょうか?一つの会社が複数のブランドホームページを持っていても良いように感じるのです。当然、本サービスに関係するものには何の効果もないのですが、逆に客層をしぼるとか、より効果的なサービスができたりしませんかね?話がずれていたらすみません(笑)
最近驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになったBinaryなこと。C#で膨大な量のデータを処理しなければならなくなり、遅くてトロくて吐き気がしてきたので、プログラムをチューニングすることにした。ただ、C#プログラムをみみっちくチューニングするより、Cでネイティブアプリに書き直してしまった方が速くなるに決まっているという「しごくあたりまえのこと」に途中から気づき、まずはどの部分がどの程度パフォーマンスが改善されそうか見積もりをするため、いろいろパフォーマンス調査プログラムを、CとC#の両方で書いて、比較してみた。ところが、ここで天地がひっくり返ってしまった。なんと、おいらの興味があるほとんどすべての項目で、たいした差が出なかったのだぁ!!!結局、C#は、Cと同様、ポインタもunionもstruct配列のメモリブロックコピーも、かなり無節操な型変換もできてしまうので、Cのようにアクロバティックなパフォーマンスチューニングができてしまうし(voidポインタが使えるので)、なにより.NETのJITがすごすぎ。いったいぜんたいどういう魔法を使ったらネイティブコードとほとんど変わらんパフォーマンスがでるんだ? わけがわからない。C#からならネイティブDLLもOSのAPIもいくらでも呼び出せるし、もうCなんていらなくね? VisualBasicとかC#とかJavaとか、簡易言語の時代さね。本格的なプログラム言語の時代は、おいらが龍宮上で飲んだくれてるうちに、いつのまにか終わっちまったんだなぁ。 とりあえず、おいらは、スターリンの銅像を引きずり倒すがごとく、バイナリ教の神様を神棚から引きずり下ろすことにしましただ。
クローズドな環境で作るという手もありますが,オープンな環境との接点があることを生かすという手もあると思います.例えば,最近のVoIPサービスは既存の電話網とも接続することを売りにしています.そういえば,050番号を提供している電話会社はイノベーションのジレンマに直面して苦しんでる典型だという気がします.
たいへん申し訳ないですが、それには異論を唱えざるをえません。binary2.0はジョークだけど、ジョークじゃない部分があると、私は思っています。C言語が不要になるということと、C言語的なパフォーマンスチューニング技法が不要になることは、ぜんぜん別の話だと私は思います。そこのところを混同してはだめだと思うんです。C言語は不要になるし、C#に移行すれば、無意味になるC言語的技法ももちろん多いのですが、「大部分の」C言語的な技法が無意味になるという認識は、少し違う思います。その技法を使用する頻度が少なくなるだけで、完全にその技法なしでやってけるようになるわけじゃないんです。その技法を捨ててしまったら、未来から復讐されることになると思います。「Cで書いた方が速い」という思い込みがもはや通用しないというのは、多分にそうかもしれませんが、「Cプログラマーが伝統的にやってきたさまざまなC言語独特のパフォーマンスチューニング技法が陳腐化する」ことにはならないと思います。むしろ、CLRやJVMのJITが進化すれば、いわゆるC言語的パフォーマンスチューニングが不要になる、という考え方の方が、よっぽど都市伝説な気がします。現に、上記のC#プログラムでは、SyntaxがC#なだけで、コンセプトや技法としては、伝統的なC言語、というか、むしろアセンブラ的な技法を使ってチューニングすることなしに、劇的なパフォーマンスの改善ができなかった箇所がけっこうありました。それは、コーディング量としては少ないけど、ポイントポイントで、決定的に重要な役割を果たしていますし、一切の希望的観測なしに現実を直視すると、今後もそうでありつづけるとしか思えません。ベタベタな現実として、それを完全に避けて通るのは机上の空論です。そして、それは今後JITやVMが進化することで解消されるようなものでは、本質的にないものだと思います。 実際、その部分のソースコードは、Syntaxまで含めてC言語そっくりで、 bainaryな技法に馴れていない最近のJavaプログラマやC#プログラマ(ソースコードの行間に、それが展開されるマシン語コードやCPUがそれを処理していく様子や仮想マシンの動作イメージやbainaryなメモリ構造イメージを幻視することができないような高級言語な人たち)には、何をやっているのかわけのわからない呪文のようなコードです。むしろ、JavaもC#も知らない職人芸的C言語プログラマやアセンブラプログラマの方が、よっぽどたやすく理解できるとおもいます。 そもそも、あれだけすぐれたJITをもった.NETのCLRが共用体や連続メモリに配置されたオブジェクトを、そしてC#がポインタやsizeof演算子などを導入したのは、もちろんレガシーとのインターオペラビリティーが第一義的な目的ではあるものの、決してそれだけが目的ではなく、そういうパフォーマンスチューニングも含めた伝統的なC言語の技法を、仮想マシン上の仮想マシンコードでも使えるようにするためという目的も強く意識していたということが、開発者たちの発言から伝わってきた記憶があります。彼らもJITやVMによる機械的パフォーマンスチューニングの限界を十分理解しているのだと思います。 なぜ、JITやVMによる機械的パフォーマンスチューニングに限界があるのか、それがどのようなものなのかは、JITやVMを開発している人たち自身がいちばん詳しいと思うので、私ごときがそれについて言及するのははなはだしく僣越であり、素人見解をぐたぐだと詳細を語ってネットのノイズを増やすのもアレなので(「私をたばねないで あらせいとうの花のように」ってどういう意味なんですか?)、これについては、彼ら専門領域の人間とは別の角度から説明をしてみます。 まず、このJIT/VMの限界問題は、企画屋と開発者の関係にたとえると分かりやすいと思います。はてなやGoogleはエンジニアが企画までやりますが、パワーポイントでコンセプトを書き、想定ユーザを決め、デザインをし、画面遷移を書く企画屋と、そこからアーキテクチャ仕様を起こし、プログラミングしていく開発者とが分業している会社もたくさんあります。binaryなエンジニアから見ると、JavaやC#でソースコードを書くというのは、まるで企画書を書いているような感覚があります。高度に抽象的な意味表現を記述するのが、主な仕事で、それを実際のマシン語コードやメモリ構造のビットの世界に落とすのは、すべて仮想マシンの仕事、という役割分担です。 しかしながら、開発者が、設計やチューニングや保守運用で、ありとあらゆる技術とスキルとツールとマシンを駆使しても解決するのにえらく苦労するような難題に直面したとき、企画者がたまたま技術にも深く通じているという特殊ケースでは、企画者が技術的難題を理解し、エンジニアといっしょになって企画としてのユーザ訴求力を維持しながら、劇的に開発生産性・保守性・パフォーマンスを向上させることに成功するようなことがよくあります。企画内容を替えないまま、「パフォーマンスをあげるのは開発者の仕事でしょ。」とはねつけるような企画屋と組んだエンジニアは不幸です。企画内容を固定したまま、実装設計の変更だけでパフォーマンスチューニングをするのは、能率が悪いだけでなく、しばしば劇的なパフォーマンス改善自体が不可能だからです。 JavaやC#のような高度に抽象的な言語と仮想マシン(JVMやCLR)の関係は、これにとてもよく似ています。仮想マシンやOSやCPUなどのbainaryな世界の登場人物を理解しようとせず、一方的にパフォーマンスチューニングはあなたたちの役割でしょと、はねつけると、問題が一気に複雑化してしまうことがあるのです。むしろ、企画屋と開発者の関係においては、開発者が人間であり、実装設計レベルでJVMやCLRにはおよびもつかないような人間の脳特有の高度な創意工夫を行えます。なので、そういう人間ですら、企画仕様を変えずに、実装仕様の工夫だけで問題を解決することが困難なケースが多いのですから、たんなるコンピュータプログラムでしかない仮想マシンなど、なにをかいわんやです。 ちなみに、先日はてなの方と飲んでいてうけた印象ですが、私は、Googleやはてなの極めて重要なコアコンピタンスの一つは、エンジニアと企画が明確に分離していないことじゃないか、という印象を受けました。もちろん、現代社会、というより、人類文明自体が、「分業」という社会モデルにおける超弩級のイノベーションの採用によって飛躍的という言葉で表現しきれないほどとてつもなく飛躍的に発展したのは十分承知しており、分業を否定するつもりはまったくありませんが、一方で、とくに一部の極端に未成熟な産業領域(Googleやはてなのいるあたりとかね)では、そのアーリーステージにおいて分業による弊害が分業が生み出す豊さを大きく上回ってしまうのではないかと思っています。その差分が、Googleやはてななどの企業パワーの源泉の一つだと思うんです。 あと、ついでに、わたしのような低いレベルの人間のもので参考になるかどうかは極めて怪しいですが、伝統的なCプログラマがソースコードの向こうにみているであろう世界をちょっとだけ記述してみます(まあ、トライぐらいはしてみてもいいだろう)。 ヘビーなCプログラマやアセンブラプログラマは、オブジェクトを、たんなるバイトやビットの並びとして見るビューをもっています。ここでビューと言っているのはMVCモデルにおけるビューですね。そして、もちろん、マルチビューなCプログラマの方が多いです。マルチビューというのは、ちゃんとポリモルフィズムとかカプセル化とかデザインパターンとかそういうものとしてオブジェクトを見るビューも同時にもっていて、その複数のビューを同時に脳の中に開きながら、アーキテクチャ仕様書を書いたりコーディングしたりするわけです。で、ビットやバイトの並びのビューを通してオブジェクトを見ると、オブジェクトのフィールドっていうのは、たんなるメモリアドレスにラベルを貼っただけのものなんです。配列も同じです。というか、プログラムコード自体も、ビットの並びでしかなく、すべてのものは、ビットやバイトに別名をつけて、別な扱い方をしているだけのものに見えます。なので、JavaやC#がリフレクションとか言って、プログラム自身の情報をオブジェクトやデータとして参照するのをなにか特別な能力であるかのように標榜するのは、滑稽に思えます。そもそも、バイトビューの世界では、プログラム自身もデータと同様バイトの並びでしかなかったので、プログラムコード自体をデータとして扱うリフレクションプログラムなど、あたりまえすぎるほどあたりまえだからです。 もっというなら、バイトビューな世界から見ると、現在のJavaやC#のリフレクションなど、一方通行の中途半端なリフレクションにしか思えません。つまり、リードオンリーなリフレクションです。ほんとうの(笑)リフレクションは、自己書換えもできなくてはいけません(ここの部分は、かなりジョークね(笑))。人間の脳のような自己書換え系です(もちろん、.NETにはそれを意識したと思われるライブラリ群がありますけど。あと人間にも、何度やっても反省(reflection)せず、何度でも同じ間違いを繰り返す人がいますけど > 実はそれはおれの事なんだけど(笑))。 そして、これはほんの一例にすぎず、ポリモルフィズムとかデザインパターンのビューから見ると進化の歴史であったプログラミング言語の進化の歴史は、バイトビューから見ると、かつてできたことをできなくしていく退化の歴史です。もちろん、その退化によって得られたトータルメリットがトータルのデメリットをはるかに上回ったからこそ、このような歴史的過程を辿ったのですが、多くのものの進化のプロセスがそうであるように、価値あるものを初期のトレードオフ条件によって切り捨てることで進化したものは、成熟するに従って、トレードオフ自体を解消する方法を見いだし、進化によって獲得したものを失うことなしに、進化の初期ステージで切り捨ててしまった価値あるものを復活させることで、さらなる進化をするというのが、とてもよくあるパターンです。 たとえば、産業革命以前は、顧客一人一人の個性に合わせて商品を作る、カスタマイズやパーソナライゼーションなんて、あたりまえすぎるほどあたりまえだったわけです。空気のようにあたりまえすぎて、そういう概念を記述する言葉すら必要なかった。それが、いわゆる産業革命と言われる過程で、パーソナライズやカスタマイズという豊さを切り捨て、画一化・規格化することで、流れ作業と分業による大量生産を可能とし、文字通り空前絶後の目も眩むような生産性向上が行われ、それまで人類が生産したすべての富の200倍もの富をほんの数世紀で創り出して、現在われわれがあたりまえのように享受している現代文明を作り上げてしまったわけです(われわれ=現代日本人ね。サブサハラとかのことを失念しているわけじゃないですよ、もちろん)。しかし、いまや技術およびビジネス技法でのイノベーションにより、このトレードオフが解消され、多数の人々に対するサービスでありながら、同時にパーソナライズもされているというサービスの開発が可能になりました。そして、われわれは、産業文明の進化によって獲得したもの失わないまま、進化の初期ステージで切り捨た豊さを再び復活させようとしているわけです。 また、自己書換え系といえば、分子生物学においてはRNAこそが自己書換え系そのものですが(DNAと違い、RNAは直接RNA自体を合成したり、加工したりする能力を持つので、ソフトウェアの分野におけるアセンブラプログラミングととてもよく似ている)、DNAというイノベーションによって陳腐化されたかに見えるRNAワールドですが、RNAをよく理解することで、エイズなどのレトロウイルスやガンや老化の理解が深まることで大きなイノベーションが生まれ、また、今後もブレークスルーが期待できるのも、イノベーション構造的にはこの問題とよく似ています。 というわけで、もちろん、ソフトウェア工学的には太古の昔に存在したバイナリーワールド(分子生物学でいうところの「数十億年前に存在したRNAワールド」のパクリね(笑))の技法の中には、陳腐化してしまって、いまではジョークのようなものもたくさんある一方で、温故知新というか、今後の情報技術の進化の中で復活したり、ますます重要になってくるものも多いと思います。現代のネットワールトにおける、その主な原動力の1つに、人々の処理したい情報量は、ますます増えるし、その処理の仕方に対する人々のニーズはますます多様化・高度化していくので、それらすべてのニーズの膨張を、ハードウェア的なマシンパワーの増大だけですべて吸収するのは、非現実的だから、というものがあるのではないかと思います。CPUパワーの増大が、むしろ対数で表記した方が分かりやすいのじゃないのかというような増え方をしたとしても(それすらも雲行きが怪しいですが)、社会的リクワイアメントの増大もやはり対数で表記しなければならないようなものになるので、現実問題としては、対数の底の部分が問題になってきてしまう、というわけです。ムーアの法則なんて、対数の公式でもつかって約分すれば、消えちゃうかもしんないんですよ。 ということで、binary2.0な人たちは、まるでジョークであるかのように、自分たちのレゾンデートルを茶化していますが、とうぜん、わかっている人にはあたりまえすぎるので、オイラごときがいうのは恥ずかしいのですが彼らが沈黙しているので、オイラがあえて代弁しますが、それはジョークだけど、ジョークじゃない部分があるんですよ。そして、そのジョークじゃない部分ってのは、現実のリアルな問題における決定的な場面で、ときとしてプロジェクトの命運までも左右してしまうような重大な意思決定に欠かせないような、ものすごくクリティカルなものじゃいかと、ぼくは思っています。少なくともプロジェクトリーダとか、SEとかのレベルでこの部分がかけていると、そのプロジェクトは頓挫しかねないし、CTOのレベルでこれがかけていると、会社そのものがヤバくなりかねないような、そういうたぐいの「意思決定における必要条件の一つ」にときとしてなってしまうんじゃないかと思うんですね。もちろんいまどきこんなもん十分条件でもなんでもないですが。 あー長かった。意味もなくだらだら書きつづけるのって、それはそれでけっこうな労働ですね。でも、これで、はてなのすべてのコメントの中で、最も長い、コメント最長記録を達成したのではないかと思います。ギネスブックには載らないと思うけど、ギネスブックに載りそうなほど、不毛な挑戦ではあったな。 まさか、こんな長いコメントを、ここまで読んだ方はいらっしゃらないと思いますが、もし読んだとしたら、読んでくださって、どうもありがとうございました。お礼に、「はてな一長いコメント記録達成の目撃するほどの暇人」という称号をお送りさせていただきます。
僕は高級言語しか使えないのですが、確かに、究極までパフォーマンスを突き詰めたいときに最後はアセンブラかなーとか思っていました。でもJITがすごく進化したら、動的にアセンブラ的な技法を使ってチューニングをしてくれたりするんじゃないでしょうか?「アセンブラ的な技法を使ってチューニング」がわからない若造なので、多分それは無理だねって言われるのがオチですが、JITに期待しています。
「はてな一長いコメント記録達成の目撃するほどの暇人」という称号に惹かれて読んでしまいました。中身も面白かったです、感謝。

 

[ 118] suVeneのあれ: 「弱者」について考える時に陥る罠
[引用サイト]  http://zeromemory.sblo.jp/article/11554726.html

弱者について - HINAGIKU 『らめぇ』を読んで思ったことをつらつらと。ちなみに、引用もとのエントリの文脈に添った形ではなく、連想したことを抜き出して書く。「弱者」或いは、「少数派」を切り捨てずに、対話などを含む何らかの方法でお互いが歩み寄れたらよいなぁとは、常日頃考える。このような逸脱者が出たとき、「普通の人」は「そういうやつが異常なだけだ」として切り捨てようとする。ぼくは違和感を覚える。異常なひとは救われなくてもいいのだろうか? 救い得ないのだろうか?…… (略) ……しかしながら、属人的な要因――精神異常、精神疾患などを抱えた弱者には、一様に冷淡である。弱者について - HINAGIKU 『らめぇ』 私も「違和感」とは呼ばないかもしれないが、似たようなポイントで考えることが多い。精神異常や精神疾患などは勿論のこと、その場におけるマジョリティとは違った意見を持つマイノリティに対する、マジョリティ側の(対応というより)反応というのは、一様に冷淡(であるように)見えることが多い。勿論、全てのマイノリティに対して、個々に対応していくなどということは、あらゆる意味でのコスト的に不可能であることは承知しているが、それでも目あまると感じることもある。特に、マジョリティ側から「認識されているマイノリティ」ではなく、ほとんどの人から「認識されないマイノリティ」における、「味方のいない状態で主張を繰り返すことの虚しさ」については、自分のことにしろ、他人のことにしろ、その不条理さと、どうしようもなさに、打ちのめされそうなほどである。まぁ、その話は、また別の機会にするとして、引用元のエントリを読んで、ふと自戒の意味も含めて考えたことは、別のことである。というのも、「弱者」の問題は、主張したり耳を傾けるなどをして、双方にとって少しでもよい方向に解決すればよいなぁと考えるのは冒頭に述べたとおりだが、それと同時に、その問題を扱う時(自分にとって)陥りやすい罠もあるという話だ。それは、相手、或いは「多数派」を普遍的な「強者」だと規定して批判することで、自分の正当性に対し安易な納得を得て満足してしまいがちではないだろうかということである。要するに、自己満足の極みである。(全ての行動が自己満足なんだというのは置いといて)自分が「弱者側」の立場から物事を主張する時、その主張とは別のところでは、他者から自分を「強者」と規定されている可能性を忘れてはならない。自分にとって相手が「強者」であるのは、ある特定の価値観において、ある特定の場において、ある特定の社会において、ある特定の時系列においてであり、決して「普遍的強者」ではない。そして、同時に自分の立場も「普遍的弱者」ではないということを意識しておかなければならない。これは、「弱者側」からの主張をするなということではない。「ある特定」を明確に意識し、その範囲内において思うことは存分に主張すべきで、「ある特定」を逸脱するところまで普遍化してはいけないということである。(改めて述べておくが、引用もとのエントリが普遍化していると言っている訳ではなく、「弱者」の問題を考えるときの自戒の意味を含めて書き起こした文章である)関連エントリ- suVeneのあれ: 抑圧と弱者について考える - suVeneのあれ: 強者と定義する者への逆差別 - suVeneのあれ: りんごの実とムラ generated by 関連エントリーリストジェネレータ参考エントリ弱者について - HINAGIKU 『らめぇ』

 

[ 119] 勧善懲悪の思考停止に陥るな:NBonline(日経ビジネス オンライン)
[引用サイト]  http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20080303/148672/

時津風部屋の力士急死事件で、先週から今週にかけて注目すべき動きが発生してしまいました。まず2月29日、逮捕された前時津風親方と3力士が「傷害致死罪」で起訴されました。
これを受けて日本相撲協会は3月1日、時津風部屋所属の3力士への処分を検討する臨時理事会を6日に大阪市内で開くことを決めました。協会の規則には解雇、番付降格、減給、出場停止などがあり、3力士は解雇される可能性が高いと、報道は伝えています。
北の湖理事長(元横綱)は、当初は刑事裁判の推移を見守って、判決が出るまでは処分を保留する意向だったのが「起訴されたことで事の重大さを再認識」「今は事態をよく見極める必要がある」と理事会の開催を示唆したというのです。問題はこの北の湖理事長と理事会の姿勢にあります。
というのもほんの数日前、25日の段階では、逮捕された幕下の明義豊、序二段の怒濤、時王丸の3力士は揃って、番付表にしこ名が載せられていたのです。日本相撲協会は3人に処分を下しておらず、引退もしていないので、番付表に当然名前は残ります。
3力士とも昨年九州場所から全休が続いている状態でしたが、日本相撲協会は初場所後の番付編成会議で、警察の捜査に協力していることが休場の理由の1つである点を考慮して、3力士の春場所の番付を特例で初場所と同じ地位に据え置くことを決めたばかりでした。
刑事被告人として「起訴」された段階では、裁判所はいまだ判断を下す以前で、被告人は有罪とも無罪とも決まっていません。もし裁判所で「無罪」となったら、この「解雇」はどういうことになるのでしょうか? サイパンでの三浦和義氏の逮捕が報ぜられ、最高裁に至るまで日本の裁判所は判決が甘い、などという記事も出ていますが、有罪は有罪、無罪は無罪、罪が確定するまでは未決で、犯罪者と決まったわけではありません。警察当局の見込み捜査と拷問まがいの自白強要で無理やり調書が作られ、その誤った「犯人像」がマスコミに上る例は枚挙にいとまがありません。著名な例では「松本サリン事件」の被害者である河野義行さんは、当初は犯人だと「自白」させられて、顔写真入りの報道被害にも遭っています。
今回のケースでは、実際に3力士も暴行を働いているのですから、上のような例とは一緒にできません。しかし、逮捕されて世間に名前が出てしまった3人について、起訴されたから、として解雇を言い渡すとしていますが、この事件で書類送検されている力士はまだほかにもいます。もし彼らも一緒に「解雇」などしてしまったら時津風部屋は崩壊してしまいます。「部屋」崩壊とか「年寄株」の名跡そのものに傷がついたりしたら、影響は相撲界全体に及んでしまうでしょう。どこかで線引きをしなければならないと考えるのは分かりますが、それが「起訴」で「解雇」は、明らかにお手つき、ミスだと指摘せざるを得ません。
というのも「起訴―即―罪人扱い―解雇」「不起訴―即―お茶を濁して不問に付す」というのであれば、相撲協会のやっていることは冤罪作りと全く変わらなくなってしまうからです。
書類送検された力士の名は報道には載っていませんが、時津風部屋の力士は限られた人数ですから、すぐに分かってしまいます。もし相撲協会の姿勢が、起訴なら解雇、不起訴で報道に名前が広く出ていなければ、番付にしこ名が載っていても目立たないから、嵐が過ぎ去るのを待とう、といった姿勢であるなら、まさにトカゲの尻尾切りと言うしかありません。
当初、逮捕後も番付に力士の名が残るという報道を見て、相撲協会には珍しく筋道を通すのかな、と感心して見ていたのですが、とんでもありませんでした。相撲協会が本当に反省して、体質を改めてゆくためには、起訴された力士たちの少なくとも一審判決が下され、何らかの罪名が確定するまで、協会の一員が被告人席に立たされているという状況を共に耐え忍び、相撲協会自身が被告人側にいるつもりで、世論の批判を受け続ける必要があるでしょう。北の湖理事長が「起訴という事態を深刻に受け止める」などと安易に発言すれば、「相撲協会の成員のまま刑事被告人になるという状況は深刻だから、一刻も早く解雇して、協会側は身奇麗にしておくべき」という姿勢をアピールしているとも見えかねません。
私たちが常識として受け入れていること。その常識はなぜ生まれたのか、生まれる必然があったのかを、ほとんどの人は考えたことがないに違いない。しかし、そのルーツには意外な真実が隠れていることが多い。著名な音楽家として、また東京大学の助教授として世界中に知己の多い伊東乾氏が、その人脈によって得られた価値ある情報を基に、常識の源流を解き明かす。
1965年生まれ。東京大学大学院物理学科博士課程中退、同総合文化研究科博士課程修了。松村禎三、レナード・バーンスタイン、ピエール・ブーレーズらに学ぶ。2000年より東京大学大学院情報学環助教授(作曲=指揮・情報詩学研究室)、2007年より同准教授、東京藝術大学講師。基礎研究と演奏創作、教育を横断するプロジェクトを推進。『さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生』(集英社)でオウムのサリン散布実行犯豊田亨の入信や死刑求刑にいたる過程を克明に描き、第四回開高健ノンフィクション賞受賞。メディアの観点から科学技術政策や教育、倫理の問題にも深い関心を寄せる。他の著書に『表象のディスクール』(東大出版会)『知識・構造化ミッション』(日経BP)など。
私たちが常識として受け入れていること。その常識はなぜ生まれたのか、生まれる必然があったのかを、ほとんどの人は考えたことがないに違いない。しかし、そのルーツには意外な真実が隠れていることが多い。著名な音楽家として、また東京大学の助教授として世界中に知己の多い伊東乾氏が、その人脈によって得られた価値ある情報を基に、常識の源流を解き明かす。
1965年生まれ。東京大学大学院物理学科博士課程中退、同総合文化研究科博士課程修了。松村禎三、レナード・バーンスタイン、ピエール・ブーレーズらに学ぶ。2000年より東京大学大学院情報学環助教授(作曲=指揮・情報詩学研究室)、2007年より同准教授、東京藝術大学講師。基礎研究と演奏創作、教育を横断するプロジェクトを推進。『さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生』(集英社)でオウムのサリン散布実行犯豊田亨の入信や死刑求刑にいたる過程を克明に描き、第四回開高健ノンフィクション賞受賞。メディアの観点から科学技術政策や教育、倫理の問題にも深い関心を寄せる。他の著書に『表象のディスクール』(東大出版会)『知識・構造化ミッション』(日経BP)など。

 

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