正子とは?/ アットローン
[ 481] ナカマサニッキ
[引用サイト] http://nakamasa.exblog.jp/
|
足元に落ちる小さな桜の花びらを拾うとそのあまりのシンプルさとか弱さに驚く。無数の花がつく木全体ではあんなにも大きく圧倒するのに。ひとつひとつがていねいに作られた美しいものの集まりは独特の強さを持つ。言葉を失わせるくらいの。 。体の中に直接届く緻密で確かな音の集まりと映像の集まりと言葉の集まりと。こういうじわじわと浸食していく種類の揺さぶりは静かに長く続くから、次の日もその次の日も胸が熱くなるから、こまる。たとえば、ちりちりと動く川の反射にすら。 東京のはずれでゆったり暮らしている彼らのおうちはほんとうにいい空気が流れていて朝から日が暮れるまですごーく長居をしてしまいました。 あたしのだいすきなある人はお別れがいつも驚くほどあっさりしている。旅が日常になっているからかもしれない。また会えるし、遠くにいても。それを経験的に知っているからかもしれない。単に美学なのかもしれない。聞いたことないからわからない。 長い旅を共にした後でもいつも、感傷的にならず固くハグをした後さっさとバゲージクレイムから立ち去って行く。振り返りもせず。ちょっとはさみしがってほしいです。 彼が野犬みたいな目をしていた時から気づいたら3年以上。いろんなところに一緒に行って何度か泣いたり泣かせたりした。 NYCには100時間ちょっとしかいなかったのにすごく濃密。ほんと濃すぎた。今回はダイスキなアーティストの撮影で行ったのでほぼ撮影。でもすべての時間があまりにも濃くてまだ、眠って目が覚めたら窓の外には黄色いタクシーがたくさん走っているような気がする。クラクションをぶーぶーと鳴らして。 国だったり民族だったり、年令や性別で何かを大きく括ることは、時に自分の前にわざわざブラインドをおろすことにもなりかねない。ニューヨークに対してあたしがいつのまにかかぶせていた厳しい街、闘う街、という単語はすっかり一人歩きしてアタマの中で膨らみ、あぶなくそんなふうにしてあたしの目をふさぐところだった。あああぶなかった。そんなラベル、何の役にもたたない。ジャマなだけ。さっさと捨てちゃおう。ぽい。 結局は個人的なことだと思う。出会って話して微笑みあってハグしたひとたちとの、とても個人的な記憶。それが積み重なって印象を作る。あたりまえのことだけど、うっかり忘れちゃうこと。 古い建物で作られた落ち着いた街並みの中で出会ったひとびとの親切さ、シャイさ、リラックスした様子、ていねいさ、やさしい笑顔と忘れられない会話。今回はそんなことばかりが刻まれる。ジャンクフードやそれに似たテレビ番組、冷たいビルの谷間の風のあいだに見え隠れする、きちんと存在するていねいな暮らし。ブラジルにいる時ともちがう、あつい何かがどんどんわき起こる。この相性のよさ。これが人ならすっかり恋に落ちてる。ちがうかな。街だけどとっくに恋に落ちてる。 もちろん、止めようとしたタクシーを横取りする人、大声でわめいている人、何を聞いてもむすっとしているタクシードライバー、そんな人もいるけれど、そんな人に会ってちょっとしょんぼりとした気持ちを完全に上書きするステキな人たちの記憶。少しずつメモリに保存していく優しさでいつのまにか心を奪われる。街のふとした美しさにも背中を押され。もうラベルはつけないけれど、優しい絵が浮かんでいくことはわかる。 小さく渦高く積み重なるものが決めていくというイミでは人生と一緒なのかもって大きめに考えてみたりする。東京で暮らす34才のフォトグラファー、そんな雑な括りだけではぜんぜんすくえてない、こぼれ落ちそうな日々のささいなディティールの集合が大きな絵を決めていく。 スライスの仕方でまるで違ってみえる日々をどう刻むか、ってことだと思う。膨大な可能性をどう刻んで大切にしまっていくかということ。できるだけ自分が解き放たれた状態で、直感に従って一瞬一瞬に何を選ぶか、ということ。大げさに言ってしまえば今この角をどっちに曲がるか選ぶということ。何を見て心に残し、何を気に留めることをやめて、この人に何を伝えるか。そういうこと。後戻りできそうでできないあらゆる選択肢がいつも目の前にあり、それをていねいに選び手にしてみたり手放していくことが、生きていくということ。 あなたが踊るのを初めて見ました。映像では何度も何度もみていたけれど、今日は1mの距離で見ました。静かに発光するあまりの美しさに、息も止まるくらいに。体中がこわばるくらいに。涙が浮かぶくらいに。 あたしがもし何か今、救いを求めていたならば、あなたにひれ伏し、あがめたでしょう。救いは今必要としていないけれど、でも、ただただ、ずっと見ていたかったです。あなたが自由に反り、曲げ、うねり、踊るところを。あらゆる音に合わせて、髪の先から足の爪まで、緊張させ、弛緩させ、体のあらゆる部分をしならせて、空気をさばいて白く踊るさまを。ただ立つさまを。フローリングの床は神の粉が舞い落ちる大地になり、あなたの動きは確かな予言のように、手をさしのべてしまいそうなくらい白い。 ビフォアマサコさま、天才なトモダチのひとり、Lakin the Kiiiiiii a.k.a. 多田玲子、しかも結婚したから下平玲子、の個展をはーぴーと吉祥寺へみにいく。タダレちゃんの絵は色もモチーフもぜんぶどっぷり大好きなあたしです。そして今回はそこに彼女のあふれまくる才能のもうひとつであるストーリーテリングも含められた完全なるレイキンワールドが吉祥寺にじ画廊を占拠していました。あたしもあの物語のいかれたヒロインになってみたい。 ファンタジーとホラーとオブセッションに満ちたこのアイスクリームの世界にあなたもぜひ接触してください。くわしくはこことか。あとkiiiiiiiのすばらしさはとても文章なんかじゃぁ説明できないのでこことかmyspaceとかでチェックしてみてくださいな。 しかしはーぴー、きみと何かを観に行くのはいつも抜群にたのしい。きみが教えてくれるものはすばらしいものがとても多い。そして感動を同じ熱で共有して目撃できる。 昨日のこと。渋谷ではどちらかというとタワー派なのにHMVになぜか1年ぶりくらいにふらりと入って。1階を1周したらポップたちがでかすぎてみんなが大声で語りかけてくるようなのでちょっと受け止めきれなくて2階にいったら、聞きおぼえのある声が。 そういえば「j-wave渋谷HMVスタジオからお届けしております」っていつもいつもフミカさんはエレガントに言っているのにスルーしすぎててぜんぜんここだなんて気づかなかったわ。こんなにこんなに近くにいたなんて。撮影が終わって夕方ねむくてロングドライブなときはぜったいこの二人のやりとりに助けられているあたしは二人のものすごいCPU搭載なかんじのアタマの回転、ピストンさんのどうしようもないプロの脱線ぶりとテキトウを極めたようなトーク。そしてフミカさんのすべての球を果敢に優雅に見事に拾う様子に深い尊敬をおぼえていたのでした。それが、こんな目の前でライヴで!どうして今まで見に行こうと思わなかったんだろう?っていうか自分がこんなにもこの二人に心を奪われていたことにまったくもってこの瞬間まで気づいていなかったわ! 気づくとあたしは腕組みして観ている男子たちをすみませんすみませんとかきわけ、ガラスの目の前でげらげら笑っていました。想像通りのファッションのピストンさんは動物園のくまのようにせまいスタジオ内をうろうろと歩きまわり、ガラスをたたかんばかりにしてこちら側のあたしたちに語りかける。へんなとこに座る。突然話変える。ほんとやりたい放題。おもしろすぎる。やりたい放題のプロすぎる。ほんとうにおもしろすぎる。フミカさんは想像以上に小柄でこぐまみたいにかわいらしくてでも顔色ひとつ変えないでプロフェッショナルに全部確実に拾う。声にも動揺などまるで出すことなく。ピストンさんがそこらじゅうにまき散らした極彩色のボールの数々を。あーーもうほんとステキこの二人。あのテンションで毎日4時間やってるなんてすごすぎる。もう、あたし、自覚しました。大ファンです!! ピストンさんはものすごく無責任なかんじでほんとうに何の役にも立たないどうしようもなくくだらないことばかり言っているけれど、どんなことも究極にやればそれ自体が美しい。あの二人のあの熱量を日々維持している精神力は尊敬に値するしシリアスさはここにおいては必要ないのよ! くるりのこの曲をちかごろ500回は聞いている気がする。朝に2回。撮影前に1回。撮影中に1回。帰りにまた。これがレコードならとっくにすり切れてる。 はーぴはあんなにくるり好きなのに、あたしはろくに聞いたことがなく、フジでみた彼らはぱっとせず、メガネ男子を愛するカルチャーからもあたしは遠く離れてるので、あおくさい青春ロックでしょ、くるり。と思っていました。あきれるほど乱暴この上ないカティゴライジング。 読むと凡庸にすら思える歌詞がメロディに乗るとアタマのねじを飛ばすほどに輝く。浮遊する言葉に思考は真空になりやがてシャッフルされて次のステージに行く。まぶしい。スーパーノバ!! 花粉舞い飛ぶ美しい天気の今日はさきちゃんの両親、マルヤマ夫妻に作ってもらったリバティプリントのカラフルドレスを。美しい色はなぜこんなにわくわくするのかな。地球の生命力を模しているから?これを着てまたあれを聴けば世界はあらゆることが可能な気がする。 マークシティの通路から渋谷のスクランブル交差点を見下ろすといつも、ここから見えるうじゃうじゃおそろしいくらいたくさんいるひとたちの誰とも、あたしは個人的につながっていないんだなって思う。こんなに虫みたいにひとはたくさんいても、その中できちんと出会えるひとはものすごく少ない。そんな中で通じ合えるひとなんてもっと少ない。その、目のくらむような途方もない確率。 今まで出会えて、大事に思えるひとたちがいることがとてつもない奇跡みたいに思えてくる。はしの見えないものすごく広い砂浜に埋められていたぴかぴかのちいさい石を見つけたみたいなミラクルに思える。ぼけっとしていたら、うっかりあっけなく見すごしたかもしれないぴかぴかなやつ。 そう思ったらいてもたってもいられなくなって出会えてほんとうにほんとうにうれしいって伝えたくなって、突然電車をおりて直接言いにいきました。あと数時間、夜になったら会えるけれど、でもすぐに言わないといけないと思って。仕事をジャマして。 出会ってから今までずっと、あたしはこのひとにいいこともわるいこともうれしいこともかなしいことも、いつも全部まっさきに伝えたかった。そしていつもわかってくれた。少なくともわかってくれようとしてくれた。全部じゃなくても。彼がそうしてくれたら世界があたたまる気がする。笑ってくれたら5才のころみたいに完璧な平和が満ちてくる。 ママが呼んでる。呼んでるのはわかってる。もうわかったよってくらいに呼ぶので1週間ぶりに電話してみる。ちょうど話したかったところ、電話しようと思ってたと言う。実家のひな人形をどうすればいいかについて話す。どうしようか。結論はでない。まぁいっか。2ヶ月ぶりにどうしてるかなと思い出したトモダチは目の前を歩いてくる。彼女の手のひらにはあたしの名前が書いてある。電話しようと思ってたと言う。観ようと思いながらちょっと尻込みしていた映画はそこから5歩歩いた映画館でやっている。たった5歩。今すぐ観るべきだよってにっこり笑うみたいに。50cm上の空気に顔が浮かんだひとからは必ず連絡がある。こういうことが多すぎる。あまりにも多すぎる。 フタが全部完全に外れてしまっているのがわかる。かつてそこにあったフタは傍らにすら、もう置いていない。見当たらない。あらゆる選択肢から選ぶには最初にアタマにぷかりと浮かんだものがいちばんうまく行く。ロジカルに考えてそれでうまくいくわけないと思っても、でも最初のがかならずいちばんいい。ほしいものは見つかる。ほしくても必要ないものはそれが必要ないと思わされるできごとがすぐに起こる。会うべきひとはすぐわかる。会うべきでないひとはそれよりはわからないけど、近づいてきたらわかる。オカルト扱いをおそれずきっぱり断言するけどほんとうにわかる。なんだろうこれ。いいことなのかどうかたまにこわくなる、そんなここ数ヶ月。 でも今日であった人の言葉で全部がつながった。ここ最近のことだけでなく、たとえば、去年おこったことも、だいぶ前のことも。すべては今日つながるために起こるべくして起こったこと、そんな気がした。気がした、なんてぜんぜんちがって、そういうことだとわかった。うたがう必要などないくらいにさっぱりと。昨日食べたものも、先月行った場所も、出会ったひとも、まちがったことも遠回りしたことも、選んだ道のほんとうにぜんぶ。 アニーリーボヴィッツ。ひとりの、その降りてきたものをキャッチする能力をにぶらせないすばらしい人の生きる様子にどうしようもなく胸がふるえる。映画館のシートから立ち上がれないくらいに。 ゆず茶が残り少なくなってきて、下の方が凍っていた。毎日飲んでるのに凍るんだとか思いながらカップにたっぷり入れてお湯をそそぐ。飲みながらメールチェック。 口に凍ったかけらが入る。固い異物感。ふと気づく。凍ったかけらは一向に溶けていない。まるで。おそるおそる触ってみるとそれはゆず茶でもなんでもなくただのガラス。シャープに割れたエッジの鋭い透明なガラス。ガラス。ガラス!!!!!!! よく考えてみて、ゆず茶が凍るわけがない。どうして気づかないのかしら。とたんに食道と胸が苦しくなった。でも気のせい。検証してみるとびんの内部は割れていない、でも縁のデザインが合致。ということは製造時の混入かしら。輸入元があれば問い合わせられるけど韓国で買ったからなぁ。輸入元はあたし。 とりあえず瓶とかけらを洗って窓辺に飾ってみた。このことはものすごくたいへんなことにもなり得た、ということを忘れないために。すぐ忘れちゃうから。 ひどいね、喘息寸前だね。ショックをかくしきれなくて半べそなあたしに先生にっこり。うえーん。あたしの一大事を笑うなんてひどいわ。Sなのかしら。 とうとう、あたしもあちら側へ。対岸の火事。隣の人の花粉症。たいへんだねぇなんていいながらまったくシリアスさを実感していなかったそれが自分にふりかかる。文字通りふりかかる。 何曜日とか何日とか、ほとんど考えずただ、いい写真撮っておいしいごはんを食べて。げらげらげら。沖縄ではずっと笑ってました。 そんな日々ばかりで人生は構成されるわけないことも知ってるけど、でも懲りずになんどもなんども確認する。長期の腰がひけたプランなど、気づけばいつもおかしいくらいあっさり変更されていて。あたしたちはいつもその瞬間にできるだけ、そこにある営みをヴィヴィッドに続けていくことしかできないことを。おかしいくらいに真剣に。 読谷で運命的に深い青のお皿に出会ってしまいました。沖縄の強い土で焼かれた大きなお皿。北の海の色の。だいじに抱えて帰りました。きっとここに何をのせても暖かくおおらかににっこりと包む気がして。フレンドリーでフォークロア的な作品が多いそのお店で、無口で冷静なたたずまいのそれは1枚だけものすごく、光ってた。秒速で好きになった。 白くて無駄がないミニマムな器がスキだったあたしは、ここのところ急速に好みが変わりつつある。土の、大地の力を無意識に求めている。ミニマムなデザインがスキなのは相変わらずだけれど、そこに何か、力がほしい。やせた土地で育って少し元気をなくした野菜、米、豆を助けるために。そしてあたしを。たぶん。 さっき内臓を直接やさしくなでられるみたいなすごい声の女の人のCDを聞きながら夜道を歩いていたら、うっとり目を閉じていました。2秒くらい。ほんとうにうっとりすると、人は目を閉じるものなのだ。あぶない。 せっかくのお休みなのに朝早く目がさめてしまってどうしても眠れない。『一人でできるポルトガル語』を本棚に取りにいったら、別の本にどうしても目がいく。山崎ナオコーラさんの『人のセックスを笑うな』。タイトルがちょっとすごいので、買ったものの寝かせておいたのに、なぜか朝の7時にあたしをすごく呼んでいた。最初の1ページを読んだらすごくしっくりきたのでお風呂で読み始める。 気づくと1時間で読み終わっていた。じわじわと衝撃がからだに響いていく。すごい簡単な言葉でつづられたすごい短いこの小説はとても濃い短編映画を見たみたいに映像をアタマに強く残し、あたしはぼけっと本を濡れないように持ち上げたままずっと天井を見ていた。気がする。 あたしにとってのすごい音楽やすごい小説、すごい映画、すごいアートの定義はこういうこと。何を見たのか、何を聞いたのか、具体的にはほとんど何も思い出せないのにからだに震えがずっと残る。においや光や手触りとして。そしてしまい込んでいたはずの記憶がどうしようもないくらい吹き出す。つぎつぎに。 恋でも旅でもほんとうに個人的なこころの震えの経験をあたしはどんなに近いひとにもうまく伝えられていない気がする。そのかけらくらいをかろうじて伝えようと努めているけれど。でもこの小説にはその、とても個人的な部分が、まるごとある。おどろくほど淡々としたやり方で、読み手を動かす余白を持って。最後にはまるで自分も何かを失ったかと錯覚させるくらいに。ほかのひとにはどうでもいいディティールをもって、読むひとそれぞれがかつて痛めた胸のどこかにいつのまにか触れる。揺り動かす。 そしてあたしは建国の記念日をお祝いするよゆうもないまま、明日の夜中にものすごくキレイな顔の男の子を撮影して、少し眠ったあと夜明けの飛行機に乗って沖縄に行くのです。 今のあたしの姿にジェットラグと黒々と縦書きで文字を添えれば時差ぼけの症状のシリアスさを説き注意を呼びかける完璧なポスターができると思います。 帰国した次の日は午後にもう何を引き換えにしてもいいから今すぐ眠らせてくださいというレベルの眠さに達し夕方に帰宅。数時間眠って夜に食事の予定が、起きたら深夜12時。こんこんと8時間も眠り続け約束はもちろん守れず。連絡もなしに。Mにいさんほんとうにごめんなさい。お会いしたかったです。そして静かな夜はまるで眠れずエンドレスな読書。これがいけない。でも眠れない。眠りの後ろ姿すら見えない。 これではいけないとフライデイは朝からユ○ケルのすごいやつとブラジルで入手したガラナ粉末と漢方系風邪薬をミックスして飲む。いきなりすごいハイパーな状態に。でもやがて顔が赤くなりめまい立ちくらみがし手足が冷え…って完全によくない状態じゃないかしら、これって!! これはユがわるいわけでもなくガラナでもなく薬でもないはず。ガラナに至ってはあたしの敬愛するベレンのセニョール・キタジマのオススメなので決してガラナのせいなどにしたくありません。思うにああいったブースター系のものというのはカラダの中にある残されたエネルギーを効率よく使うための成分が含まれているのではないかしら。(素人の勝手な想像です)そして今のあたしには使うべきエネルギーがそもそも不足しているのでそんなにたっぷりブースターを投入したところで水が全然入ってない鍋をがんがん空焚きするようなものなのでは。あぶないです。まわりの人々へのめいわくでもあります。でも気持ちだけは熱く燃えているのでそんな状態なら帰ればいいのにあやちゃんに会って夜中まで。そして朝まで眠れず。読書。東京の静かな朝にはいろんな鳥がいる。鳥とあたし。交わす言葉はなくでも通じ合える気すらする。でも違うのは彼(鳥さんです)は睡眠後であたしは睡眠前。 そして朝。掃除洗濯へのやる気に満ちておそろしい勢いで片付け始める。ひとしきりやっておなかが減ってものすごく料理。それもすごく大量に。その後猛烈に眠くなり倒れる。14時から24時まで。これ、どう考えてもブラジル時間。夕ご飯を食べて夜中2時から昼12時まで眠り続けてると考えれば納得。納得している場合じゃないのだけれど。あたしの起きる時間にひとびとは眠り太陽も裏側に。さみしい。いっそ裏側に行ってしまいたい。 あたしのこんな状況をえんえん文字にしてしまってごめんなさい。文字にすることで自分でも異常さを認識してみたかったのです。月曜日からはふつうに東京在住の人として活動することが求められています。あたしに残されているのはあとドミンゴだけ。 そして話は何の前触れもなくとても突然変わりますが、ブラジルにいる時に自然にあみだした「わるい考えをふりきる方法」を発表します。 わるい考えがアタマを浸食しそうになったら、アタマをぶんぶんと振るのです。そう、文字通りわるい考えをふりきるのです。アタマにハエが近づいてきたときみたいに。これはとても効きます。他にもわるいオーラを出している場所だったり人だったりに近づいてしまったときは宙にばってんを描くと切れる気がします。さよならって強く思うといいです。あたしがそのへんでアタマをふったり真剣そのものでばってんを大きく描いていたりしたら、あああの人は今がんばって何かと決別またはブロックしているんだなとあたたかく見守っていただけると幸いです。節分の豆まきにも通じる気がします。鬼は外って確信を持って言ってると外に行くものです。福は内で。 人間のカラダのいろいろは28日周期で入れ替わるというから、14日だとちょうど半分くらい入れ替わったことになるのかな。今あたしの半分は確実にブラジリアン、とくにアマゾニアで構成されていている。きっと血液の色はちがうはず。あざやかな赤。 あたしがこのブラジルの旅で取り入れた食べ物、空気、水、光、そして名前をつけられないあらゆるもの、目にして聞いて触れたあらゆるもの。交わした視線とことば。そういうもの。栄養分析表には現れない部分、それは大地からくる生命のグルーヴ感であり人との交わりによって起きる化学変化であり、浴びる光の強さ。それらが確かにあたしを変えている。からだの中のことはよくわからないけれど、東洋医学でよくいう水と血と気の巡り、それが確実に違う。どくどくと止められないくらいうごめいている。今までにないリズムで。 毎日あらゆる部分が解き放たれる気がしていた。解き放たれ、生まれ変わるような。停滞していたものが再び動き出すような。食べたことがない食べ物ばかりを食べて、見たことがない植物を見て初めて話す言語で思いを伝えて、踊ったことがない人たちと踊った。あたりまえだけど地球の裏側にすむひとであっても笑顔の意味するものはどこまでも笑顔であり、伝えたいことが伝わりづらいときもしっかりと目を見れば一番まんなかの部分はわかってもらえる。そして伝えられていることもわかる気がする。ものすごく原始的な部分は。それはありがとうとか好きとかそういうこと。そこでつながったというよろこびはまたあたしの中の血の赤を鮮やかにする。 ある真っ赤な鳥を見た。野生のように放たれているその鳥は蛍光色の赤。まぶしいくらいに。でも観賞用のネットの中でかなしそうにしている同じ種類の鳥は同じ赤でも薄い色。まるで脱色されてしまったみたいに。 旅の終わりに訪れた同じ国の大都市では久しぶりに食べるエネルギーを奪われた食物。名前は同じで姿は似ていてもまるでちがう。それはぐったりとした小さい生き物を思わせる。あの赤が薄くなってしまった鳥と同じように元気がなく、そこにすむ人々も等しく元気がない。動くスピードは断然早くてもそこには湧き出て空気を暖める力がない。洗練されたパッケージに入った洗練された食べ物と同じように。 都市生活を否定したいわけではまったくないのです。あたしは東京はだいすき。そこにいる、あたしのまわりにいる素晴らしいひとびとも。今そこはあたしの帰る場所であり待つ人がいてくれる場所。サンパウロからNYへ向かう飛行機で久しぶりに読んだ細かく親切に編集された日本のファッション雑誌を見て春の服やあるきづらそうなヒールの靴に心がときめくあたしはしっかりと存在しているし、お風呂のお湯はやっぱり茶色いより透明のほうがいい。ただ、そんなソフィスティケイトされた快適さとひきかえにもし何かを大きく失いそうになるのなら、その時はさっさときれいな服を脱いで髪を結んでまずは走ろうと思う。そんなことよりはるかに大切なものがあることを細胞にしっかりと思い出させるために。 現地の子たちとアマゾンの神様にとりつかれたみたいに踊りくるった夜に、そんなふうに踊るきみが日本人だなんてぜんぜん信じないよ絶対ブラジレーラだよって言われたことを、あたしはきっとおばあちゃんになってもずっと自慢しつづけると思うな。 言葉にしたら消えてしまいそうなくらい、あたし以外のひとにとってはどうでもいいくらい小さい、でもきっと大事な奇跡みたいなことがたくさん起こる。ちかごろ。 そういえばどうしてるかなって思い出すひとびとからはすぐに次々と電話が来て、silent poetsの話をしていれば次の店で当然のように聞こえてくるのはsilent poets。18年も前にこの言葉を忘れないでって言われたことの意味が突然わかって、怒濤の去年の年末のリトルテンポのライブを思い出せばお店のお兄さんがかけた次のアルバムはリトルテンポ。家に戻れば長い間探してあきらめていたものが目の前にある。 ものすごくおどろいたけど、同時にあたりまえのことのように受け入れるきもちにもなる。春樹さん風に言えば、確実につながっている。つなぎめの意味をわからずにいるけれどあえてわからないままにすることにする。ミラクルに気づく状態に今あることに意味があると思う。ミラクル自体に意味があるのではなく。きっと。こういうコンディションの時期はすべてがミラクルのらせん。出会うひとも見えるものも輝きがおそろしくちがう。フォーカスがものすごい勢いでそこにぴったりと合う。デスティニーがそこらじゅうに散らばってるのが見える。ぴかりぴかりと見える。暗い夜に蛍光塗料をべったりと塗られているみたいに。こんなときにベートーベンの月光を聞いたらたいへんなことになるってわかってるのについ聞いてしまう。ちょっとカームダウンしないと運転が危ない。 せきどめのシロップを飲みすぎたせいでもないし、神がかってるって笑いたかったら笑ってもいいから。ふふ。 東大寺敷地内にあるモリのおうち(といっても当然クラシカルで広く、芸術的に美しいシェイプの桜の木のある庭つき)のプライベート鐘を力強くつく。いい音。余韻がいい。 月はますます白く美しく輝き、ゴールドの大仏さまに抱きつきたくなる。あまりにも、安らかで静かな顔で。いつあたしはあんな顔つきになれるんだろう。なれないかな。なれるといいな。 二月堂でひいたおみくじは吉。ゆったりと月を見上げる美女が描かれ「雲散月重明」とある。説明を読むと「くもちり月ふた々び出るとは人の上にとりては今までのあしき事さりしあはせなおる也。是までのうれひさまたげ事みなさつて再び運気ひらく」 来週からしばらく地球の裏側に行くことになりました。あちらは気温30度以上。真夏の国。タンクトップの季節。あたしのダイスキな季節。そして明るいラテンの人々。ああ楽しみ。楽しみすぎる。早く行きたい。前後(つまり今を含む)はとんでもなく忙しくて気づくとまばたきをしていないけれど、いいの。まったく問題なし。早く裏側からの月を見たい。 でもひとつかなしいのはだいじなトモダチの誕生日が祝えないこと。飛行機があと5倍くらいの速さで飛べるようになるか、1月が60日あればいいのにと真剣に願う今日このごろ。 ものすごく怒濤なかんじの2007年終盤。あまりの怒濤さに前半のことをすっかり忘れてしまうほど。夏に撮った子に再会。1年半ぶりだね、って言って笑われました。あれはたった半年前だった。ほんとかな。世界単位でだまされてる気がする。信じられないわ。 ほんとうに写真を撮るということは自分の中にあるものが確実に写る。対象がひとであっても草花であっても。でも、そこまで自分をセキララに露呈しなくても技術としては「いい写真」は撮れてしまう。その写真を、喜ばれることすらある。でも誰が何と言ってくれても自分のことはだませないから、そんな写真を撮ってしまったことにとてもかなしいきもちになる。 ものすごい本気で人と、景色と、対峙すると終わった時はイタコの人がセッションを終えたあとみたいにぐったりする。そして対峙しているのはいつのまにか目の前にいる誰か、何かではなく自分になっている。自分とは何者なのか、生きていくこととはどういうことなのか、たった1枚のシンプルな写真を撮るだけのためにさんざん考え続ける。 そして自分の中に存在するはずのブラックボックスを点検する。考えて撮る写真ではなく、自分でも驚くようなものが撮れるときは必ずこの、ブラックボックス経由。そこに入ればいつも何かミラクルがでてくることは結果として知っているけれど、ブラックボックスだから中は見られないし、仕組みはわからない。でも、その入り口には確実に立てるように自分のコンディションを持って行く。 そこに落ちる葉っぱひとつが輪郭を際立たせて見えるまで。蛇口から落ちる水の音が周りの音をかき消してクリアに聞こえるまで。 人からみたらばかげてると思うかもしれないくらいにそういうことをずっとやる。そういう撮影をここ数ヶ月で何度もやって、こうじゃなくちゃいけないなって思いました。あたしが写真を撮るっていうことはこういうことなんだと。想像以上にものすごくエネルギ?がいるし、そこまで自分の奥底まで深く深く潜っていくことはたまにおそろしいことでもあるけれど。フタをしておけばすんだモノとまで、しっかりと目を合わせないといけなくて。 師走に浮かれる人々の集まる浅草エリアで大金の入ったお財布を思いっきりうっかり落としました。そう、誰よりも浮かれていたのはあたし。気絶しそうになりました。いやむしろ気絶してしまいたかった。そんなこと、まるでなかったことになるように。 財布の中には現金だけでなくあらゆるものが。大量のカード類、大量の領収書、これから行くライブのチケット、カワイイ切手、思い出の箸袋。あああ。入れすぎ。 早速渋谷のおにぎり屋さんにて、メニューが読めず困り顔の香港のファミリーに全てのおにぎりの具の解説をしました。あなごっていうのは小さいうなぎみたいなものって説明しちゃったけど。今さらだけどなんなんだろう、あなごって。 彼らは帰国したらトキオで小さいうなぎを食べたと近所のひとびとに伝えてしまうかもしれない。100%のウソじゃないけどでもまちがってると思う。ごめん。でもすごい笑顔で喜んでくれました。なぜかファミリーメンバー全員と握手&写真まで。すごい喜ばれよう。うれしかった。 |
アットローンのサイトです。