ライシャワーとは?/ アットローン
[ 466] 「売血」第1章 ライシャワー事件は起こるべくして起こった−黄色い血の恐怖
[引用サイト] http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9043/baiketsu/text1-1.html
|
ほんのいましがた講義が終わったばかりの、ほっとした解放感が漂う古い木造の階段教室である。帰り支度でざわつき出した級友を制するように、クラス委員の松本が切り出した。 ライシャワーというのは、ケネディー大統領の要請で1961年に赴任した駐日アメリカ大使、エドウィン・オールドファザー・ライシャワー氏のことだ。 宣教師を父にもつライシャワー氏は、東京で生まれ、16歳まで日本で育った。日本語は堪能で、アメリカ人の誰よりも日本に通じ、あまつさえハル夫人は日本女性だ。氏の大使赴任を日本がこぞって歓迎したのは言うまでもない。 ところが、とんでもない不祥事が起きた。1964年、ライシャワー大使が暴漢に襲われナイフで刺されたのである。それだけではない。さいわいにして命に別条はなかったものの、あろうことか手術の時の輸血がもとで肝炎になった。世に言う「ライシャワー事件」である。 昭和39年10月10日、第18回オリンピック大会が東京で開催された。日本がアジアで最初の開催国となった記念すべき大会である。その年の10月1日には、当時、営業時速世界一を誇った東海道新幹線が開業している。 戦争で何もかもを失い文字通り廃墟の中にいた日本が、やがて終戦二十年の節目を迎えようとしていた。折しもこの二大事業は、日本のめざましい復興を全世界にアピールする格好の企画であった。 国を挙げての努力は見事に報われた。新幹線と東京オリンピックを成功に導いた高度の科学技術や卓越した組織力は、世界中から極めて高い評価を得たのである。 欧米諸国に何かにつけて劣等意識を抱いていた日本が「これでやっと胸を張って世界の仲間入りができる」と少しばかりの自信を持ち始めたところであった。 さまざまな思惑や計算があったに違いないが、結局「精神異常者による犯行」ということで事件は終焉をみた。 たしかに、新聞はそう報じた。しかし、マスコミを通して私たちにもたらされる情報は必ずしも常に真実とは限らない。これまでも幾度となく思い知らされてきたことだ。 精神異常者の犯罪は、病気のなせるわざとして”おとがめなし”が常である。対応に苦慮した政府が「犯人は精神異常者」という最も安直かつ無難な形で”けりをつけた”ということはなかったろうか。 実際そのころ「政府は自らのメンツを保つために、ライシャワー氏を襲った犯人を無理矢理精神異常者に仕立てあげた」という噂がまことしやかに流れたものである。真偽のほどはわからないが、あり得そうな話ではあった。 ライシャワー氏は、聞こえた親日家である。おそらく、ことを穏便にすまそうとする氏の多大な配慮があったものと思う。その後「ライシャワー事件」が取り沙汰されることはなかった。 新聞は、かつて梅毒が「黒い血」と呼ばれて恐れられたのになぞらえて、「黄色い血の恐怖」という大見出しを掲げた。 そして「輸血後、血清肝炎に罹る患者が増えている。その原因は輸血の大部分を売血に依存していることにある」と書き立てた。 当時、私たちは医学部四年の学生であった。もとより自慢できることではないが、日本の血液制度がどうなっているのかを知る者など誰一人としていなかったし、病院ではどのような手順で輸血がなされているのか考えたこともなかった。まして売血に関する知識など文字通り皆無であった。 ライシャワー大使が日本人の血液を輸血して血清肝炎になったのは日本の恥だと思い、”輸血は肝炎覚悟の上”はなかば常識であることに愕然とし、とにもかくにも安心して輸血が受けられないというのは大問題と憂えたものである。 医学部はすべてが必修科目だ。入学して以来、講義の時も実習の時も、要するに大学の構内にいる限り、皆いつも同じ空間にいて同じ空気を吸ってきた。何年も一緒にいるのだから、互いに気心は知り尽くしている。 同じ目的で集まった”有志”には違いないが、その顔ぶれは極めて多彩にして雑多、まるで寄せ集めの外人部隊を思わせるものがあった。 海保鈴代−深窓に育ったお嬢さん。それだけに怖い物知らず。おとなしく、いつもにこにこしているが、これでなかなか芯が強い。実直な努力家。 近藤龍一−あたりを圧する風格を持つ。なれなれしく”こんちゃん”などと呼べる雰囲気はさらにない。よく弁がたつ。何事にも慎重。裏を返せばやや臆病。余計なことだが、驚くべき早飯食い。 斎藤敏祐−赤いスポーツカーを駆って、常に理論より行動が先行。つまり、じっとしていられないタイプの人間。通称”としすけ”。グループ最年長だが、誰もが呼び捨て。 斎藤紘子−日ごろ口数は少ないが、何事にも手抜きをしない。信頼度抜群。負けん気が強く言うことは辛辣。誰もが”ひろこさん”とさん付けで呼ぶ。 徐美玲−台湾出身。アメリカ経由日本の医学部という才媛。大変な努力家。言い出したら引かない頑固なところがある。通称”びれいさん”。 中泉治雄−茫洋としてつかみ所がない。普段何を考えているのかよくわからないが、社会正義派を自認。じっくり型で、山を愛する。あだ名は”クマ”。 西井華子−開放的な性格。振り返るほどの美人というわけではないが、なぜか男性に不遍的に好かれる。もめごとのまとめ役的存在。通称”かこ”。 野間泉−いかなるときも冷静にして沈着。決して自らのペースを乱すことはない。言うべきことはきっちりと言う。それだけに男性軍にとってはこわい存在。バレーボール部員。 Mさん−字を書かせたら右に出るものはない。素直でおとなしいが、なぜか松本に強く「松本君!」の一言で彼を黙らせる特技を持つ。バレーボール部員。 宗像一郎−世の中をいつもさめた目で見ている理論派。喧嘩っぱやいのがやや難点。反面、孤独を愛する大変なロマンチスト。ギターをよくする。あだ名は特にない。 松本英亜−推理小説を好み自らも筆を執る。それだけにからくりを解き明かすのは得意。なぜか世の中の裏側に詳しい。通称”マットン”。野球部員。 「売血を追っかける」と気色ばんではみたものの、さてとなると何から手をつけていいかわからない。そこでまず手初めに、わが東邦大学付属病院の輸血状況を調べることから始めた。 病棟を回って驚いたのが冷蔵庫だ。看護室にデンと据えられた大きな冷蔵庫には、いずれも真っ赤な太い字で「F血液銀行」と書かれてある。病院の求めに応じてのことかどうかは知らないが、F血液銀行からの寄贈であることは歴然としていた。 輸血が必要になると、担当医か看護婦が血液銀行に電話で注文する。血液は直接看護室に配送され、くだんの銀行名を大書きした冷蔵庫に保管される。血液の入手方法はことほどさように単純なものであった。 薬剤部が血液を集中管理するといったシステムではなかったので、結構ずさんに取り扱われることもあったらしい。 血液は摂氏4度で保管することになっているが、一緒に入れたアイスクリームが溶けないように温度を0度に調節したため、輸血の血液が凍ってしまったという信じられないような話もあったやに聞く。 電話一本でF血液銀行が欲しいだけの血液を、しかも直ちに配送してくれる。確かに便利で重宝だ。が、それも日常化するとそのこと自体が”当たり前”になる。よほど気持ちを締めてかからないと、慣れは人の感覚を容易に麻痺させてしまうものだ。 医者や看護婦も例外ではない。いつしか血液に対する考え方が安易となり、その扱いもまた雑になる。アイスクリームの一件などまさにその現れと言える。 話は飛躍するが、選挙権がいい例だ。選挙権は成人に達すると自動的に得られる。あまり当たり前すぎて、誰もことさらの感情など抱かない。 しかし思えば、等しく選挙権が与えられるようになるまでには、それこそ長い苦難の道があったのである。ようやく獲得した私たちの権利であったはずだ。それが、今や選挙のたびにその投票率の低さが話題になるありさまだ。 当たり前のことが当たり前に通用するのは素晴らしいことである。それがいつまでもそうであるためには、多くの人がその素晴らしさに気付いていなくてはいけない。当たり前のことが当たり前でなくなってしまうのは存外簡単なのかもしれないのだ。 輸血後一から三ヶ月の間に肝機能障害が認められたものは実に八割近くにのぼり、血清肝炎の発症率も極めて高いことがわかったのである。 輸血をしなかった手術患者には、麻酔薬によると思われる一時的な肝機能異常は見られても、血清肝炎の発症はない。 「輸血をすれば肝炎に罹るかもしれないというリスクは確かにあるさ。しかしね、大きな手術にはどうしても輸血が必要なんだよ」 「よしんば肝炎に罹ったとしても、何らかの治療方法はある。しかし、手術をしなければ患者さんを救うことはできない」 医療の現場にいる医師から聞かされるさまざまな意見は、煎じつめると「だから、たとえどんな血液であろうとも」ということに尽きた。その通りに違いないとは思う。がしかし、輸血後に血清肝炎に罹るリスクの大きさを考えると「やむを得ないことです」とそのまま認めるわけにもいかない。 その前に、なぜ売血がこのように幅を利かせるようになり、安心して輸血が受けられない状態に陥ってしまったのだろうか。 その年には、子宮筋腫や外傷の患者の輸血も行われ、それ以後、主として重症患者に少量の輸血が行われてきた。 血液事業としてはこれが日本で最初のものであった。つまり日本の血液事業は、一民間人によって始められたのである。 当時の政府は血液行政には全く無関心だった。ために、日本の血液事業史に初めて法律が登場したのは、昭和20年2月。「日本輸血普及会」が創設されて実に14年後のことである。 その「輸血取締規則・厚生省令第三号」もなぜか一年ほどで失効し、その後日本の血液事業は再び野放しのまま顧みられない時代が続くことになる。 戦後しばらくの間は、患者の親族などからの血液、あるいは輸血組合、輸血協会と称する業者の手を経て斡旋される供血者の血液が患者に輸血された。いわゆる枕元まくらもと輸血と言われるもので、供血者から採血した血液をすぐに患者をすぐに患者に輸血する新鮮血輸血(俗に生血なまけつと呼ばれた)であった。 枕元輸血は、大量の輸血が必要な場合、同じ血液型の供血者を一度に多数確保することの困難さと、あらかじめ日時と場所が特定されている場合でないと機能しないという二つの大きな欠点がある。 昭和21年以来、何らの法的規制もない状態で勝手に独り歩きをしてきた日本の血液事業が、ここにようやく法の定めるところにしたがって管理されることになったのである。 ちなみに三ベッドを擁する大型採血車一台の値段は620万円、二ベッドの中型採血車は520万円であった。 こうして日本の血液事業史をたどってみると、国が血液事業にいかに無頓着であったかが浮き彫りにされる。 血液の売買を公然と認めたことが最大の汚点であったのは言うまでもないが、急激な血液の需要に対して何の手も打たなかった国の責任もまた大きいと言わざるを得ない。 民間血液銀行は紛れもなく営利事業だ。血液の需要が増せば増すほど、さらに売上を伸ばそうとやっきになるのは当たり前である。 血液と名が付けばいくらでも売れる。圧倒的売り手市場が、早晩血液の質の低下をもたらすであろうことは容易に予測された。にもかかわらず、国はそれに対する歯止めをいっさい講じなかった。結果が、売血による血清肝炎だ。 「ライシャワー事件」はたまたま良くないことが偶発的に重なって起きたのではない。無策に過ぎた日本の血液事業の長い歴史が、立派に伏線になっていたのである。その点では、いわば起こるべくして起こった事件であったと言える。 しかし、日赤は献血事業に本格的に取り組んでいたわけではない。連合軍総司令部に押しつけられた形でのいわば片手間仕事であった。採血はするが自前の供給ルートを持っていなかったのである。そこで、献血された血液の供給は商業血液銀行に委託していた。 ところが、商業血液銀行がその委託された血液を自社製造血として売っていたという何とも救い難い状況も現実にあったのである。 これは目的によって二種類ある。一つは患者さんの親族など、いわゆるファミリー・ドナーがその患者さんのために必要量の血液を提供する。つまり輸血する相手が決まっている指定預血で、患者さんと同じ血液型の人が供血するシステムである。 保存血の寿命は採血後三週間だから、自分が預けた血液を自分に輸血することは現実的にはまずない。しかし預血さえしておけば、血液が必要な時には預血者同士の血液を互いに融通しあうという原則があった。つまり、出所が確かで安全な血液を輸血してもらえるということである。 ところが預血の絶対量が少ないため、いざ自分が輸血を受ける段になって手にした血液は売血だったという、割り切れない話は決して希ではなかった。 有効期限があり、しかも自分が預血した量だけしか輸血を受けることができない。その上品質の保証がないこの預血制度は、いかにも現状にそぐわない、魅力のないものであったといえる。 したがって預血という制度は、特定の人の輸血に供する指定輸血としての価値はあったが、緊急に備えて預けて置くいわば貯金としてのメリットは全くと言っていいほどなかった。 山谷さんや(東京の台東区にある地名)には労務者のためのたくさんの”どや”があった。ちなみに、どやと言うのは宿をひっくり返した言葉で、寝泊まりする所、簡易宿泊所の隠語である。 朝早く、隅田川にかかる白髭橋のたもとに山谷のどやからたくさんの労務者が集まってくる。手配師のトラックを待つためだ。 手配師はトラックの荷台に立って群がる労務者を見回し「お前乗れ。お前とそこのお前、隣のお前も」と言った具合に頑健そうな男をピックアップして工事現場へ運び込むのである。”労務者狩り”とも呼ばれた。 労務者で鈴なりになったトラックが次々に走り去った後に、時によってはかなりの数の”あぶれ者”が残される。仕事にありつけなかった人たちである。 そこへ暴力団風の男がやって来て、仕事にあぶれた人たちを一人残らずトラックに乗せる。行き先は工事現場ならぬ血液銀行だ。 職にありつけず生活費に窮して売血した人にも、一日重労働して稼ぎ出す賃金に相当する現金が労せずして手に入る。 血を売った労務者も、それを手引きした暴力団も、血液銀行も、誰もが皆”いい思い”をした。オールハッピーである。 仕事がしたくても職がない。当座の生活に困る。背に腹は変えられず血を売って金を得る。最初はちょっと心配だったが、やってみると400mlの採血ぐらい別に何ともない。簡単に収入が得られると、汗して働くのが馬鹿らしくなってくる。 身から出た錆とはいいながら、常習売血者の体はもはや労働に耐えられない。血を売って収入を得る以外に食べる手だてがなくなってしまうのである。 はなはオールハッピーに見えたのだが、終わってみれば結局肥えたのは悪徳企業と暴力団というお定まりの形である。 結局、売血の供血者には労務者が多いことと、血液銀行が暴力団がらみであることはわかったが、それ以上のことはあきらかにされずじまいであった。 しかし”多分”とか”おそらく”ではそれがいかに高い可能性であったとしても、所詮想像の域を出てはいない。あくまで”うわさ”の範疇である。 私たちにはかりにも医学という自然科学を学んでいるのだという自負があった。うわさのレベルで留まるわけにはいくまいという責任にも似た気持ちもあった。 「何がいけないのか、どの程度に悪いのかを科学的裏付けをもって明確にしなければならんだろ」近藤と宗像が言った。 |
[ 467] ライシャワーの日本史
[引用サイト] http://www.geocities.jp/collegelifecafe3666/0111rev.html
|
2001年は、日本の歴史をどう見るかについて、様々な議論が展開された年でした。「新しい歴史教科書」に触発された教科書問題。小泉純一郎首相の靖国参拝と、それに対する中国や韓国からの批判。遺跡捏造問題や、講談社により刊行中の「日本の歴史」の第2巻の回収。こうした問題は、歴史が持つ影響力と曖昧さ、そしてそれゆえに歴史というものを真剣に考えなければならないということを、私達に教えてくれています。今月紹介する『ライシャワーの日本史』は、もともと1986年に文藝春秋から出版された著作の文庫への収録で、純粋な新刊ではありません。しかし、この時期にこの「古い」日本通史を文庫で読むことが出来るということは、それなりの大きな意味をもっていると思います。一つは、激しい論争の熱気から離れて、冷静な議論を思い起こすことが出来るということ。議論が白熱している時こそ、違う視点からの意見を聞くことで、より豊かな視野を開くことができます。その意味で、この本が出版された時からの15年の時間は、意味のある古さだと言えます。第2に、本書の内容自体は、決して「古い」ものではありません。アメリカ、アジア、ヨーロッパ・・・世界各地域との日本の交流を視野に入れながら展開される記述は、講談社版「日本の歴史」の議論に通ずる部分さえ感じさせますし、外交官かつ研究者としての著者の視野の広さを十分に感じさせます。また、議論の当否を別にしても、著者が少なくとも日本を「理解」しようとしている態度が感じられ、こうした他者を理解するための歴史というものもありうるのだな、と実感させられます。人文科学、社会科学においては、古さは必ずしも欠点ではないのです。 ライシャワー氏の日本理解では、古来より日本に存在しているいくつかの特徴と言うのが挙げられています。例えば藤原氏による摂関政治について「藤原氏は、黒幕となって傀儡を背後から操るという、以後の日本人の典型的支配形態に先鞭をつけた。日本の歴史を通じて、名目上の支配者かグループが、実は、ほかの人間かグループに踊らされているというケースは、例外ではなくむしろ通例なのである」(64頁)と述べられています。また、「島国であるおかげで、外国勢に国土を席巻されることもなければ、国境を侵されることもなかった」(23頁)、というところから始まって、「地理的孤立と文化的言語的特異性のゆえに、日本人は強く自己を意識するようになり、他者との相違に非常に敏感になった」(25頁)という形で、日本の特異性や国民的同質性が指摘されてもいます。こうした文化論的理解がどれだけ歴史の説明要因になるかについては、いろいろな反論がありうるでしょう。日本人は特殊ではない、という反論の余地は十分にあるはずです。ただ、なぜ日本が20世紀に大規模な戦争を起こし、その後世界でも奇跡と論じられるほどの経済復興を遂げたのかということを説明するためには、文化論的理解を退けるならば、それなりの長期的視野と論旨の強さを持った議論が必要となるでしょう。ライシャワー氏の議論は、海外に対して日本の「特殊性」を説明する際に反駁しなければならない、一つの典型的な例を示しているとも考えられるかもしれません。 ライシャワー氏の日本史の中で、現代に対する鋭い問題提起になっているものとして、2つの点があげられます。一つは、日本への民主主義への導入に関連します。ライシャワー氏によれば、大正デモクラシーの歴史的遺産は、日本が戦後復興する際の一つの軸でした。この遺産があったからこそ、急速な復興が可能になったと考えられています。しかし、戦後の民主主義の導入は必ずしも明確なものではありませんでした。「アメリカ人にとって民主主義とは、あらためて論じるまでもないわかりきったものであったから、言葉で説明しようとする努力をさほど払わなかったのである。だが日本人、それもとりわけ知識人となると、古くは徳川時代の包括的な儒教思想、近代になってからはドイツ流の観念論が思想的背景をなしており、アメリカ人が示そうとしたものよりも、もっと理路整然とした哲学的説明を望んでいた」(307頁)。ここから氏は、日本におけるマルクス主義の強さなどを導いていくのですが、それ以上に、日本人が民主主義というものを実感・体感として会得していないという批判は、現在にも通ずる面をもつものです。民主主義の歴史において、日本はまだまだ学生時代を脱していないのかもしれません。もう一つの論点は、世界における今後の日本の役割についてです。現在でも、国際社会の中で日本がいかなる役割を果たすべきか国民的な合意は取れていないように見えます。1986年の時点でライシャワー氏が記した「戦後育ちの日本人と日本全体にとって現実の問題となっていたのは、経済的もしくは軍事的な災厄を招きかねぬ事態に直面している世界のなかで、日本が果たす特別の役割とは何か、という問いかけであった」(455頁)という一文は、現在の日本の状況でもそのまま当てはまります。これに対して「これまで以上に意思疎通に熟達し、心底から他国民との共同体意識をもつことが日本人に求められている」(458頁)と氏は本書を結んでいますが、この宿題に答えが出せない限り、日本は世界からの宿題に解答を出していないということになるのでしょう。過去からの課題、未来への課題の解決に向けて、今こそ真剣に歴史を学ばなければならない時期に差し掛かっている。この通史は、日本へのそうしたメッセージを含んだ著作でもあるのです。 |
アットローンのサイトです。